2020年01月08日

杜の宮市はどうやって始まったのか…第20回杜の宮市(出展申込は本日1月8日20時まで)

 2020年5月5日開催の第20回杜の宮市は、本日1月8日の20時までで出展希望者の応募を締め切ります。
 http://miyaichi.net
 あの人、応募を忘れてるかも・・・みたいな方がいらしたら、ぜひお伝えください。

 
 杜の宮市はどんなふうに始まったの? そんな質問を、今でもいただきます。


土俵がステージ、どすこいライブ
 後のNPO法人志民連いちのみやの諸活動に繋がる様々な動きは、1990年代初頭に始まっていきました。
 当時「まち遊び総研」と名打って、パソコン通信での一宮地域ページの運営、アートイベント、ライブイベント、講座やパネルディスカッション等を繰り返していく中、1998年夏に「どすこいライブ」をスタートします。

 「おりもの感謝祭一宮七夕まつり」…一宮の七夕まつりは、商店街に立つ大きな飾り物がメインで、それらを見て回り、パレードがあり、露天商の食べ物などを買うというような商業イベントです。気づけば周りの人間は誰も行かなくなっており、他方莫大な公金が使用されています。それに対し「自分たちが楽しいと思う音楽を、自分たちで企画して運営し、皆で楽しもう」という意図でスタートしたのが「どすこいライブ」です。

 ある時、自転車で走っていた私は、真清田神社の裏の大宮公園に土俵を再発見します。子供のころから遊びに来ていたのですが、改めて見てみると土俵は一段高くなっていて屋根が付き、周りには芝生の観覧席がぐるりと囲んています。これはまるで野外音楽堂ではないか。ここなら市営の公園の中で、土俵もたぶん市役所の管理だろうし、電気も来てる。お金をかけずにコンサートができるのではないか。当時だんだん見つかってきた、まちづくりの仲間たちに相談し、1997年末から準備にかかりました。

 実際には当時の行政は今よりさらに非常に難しく、毎日のように役所へ通い、半年近くかかってやっと土俵の利用許可が出ました。嫌な思いもしましたが、その当時に助けてくれた行政官は、その後も色々な局面で私たちの市民活動を助けてくれました。

 七夕まつりの期間中の日曜に、土俵をステージにして開催する「どすこいライブ」です。私はそこまで考えずにいたのですが、どこの馬の骨かも分からぬ市井の市民が集まって公共地で何かするということは、このまちでは非常に珍しいことだったようです。


七夕まつり、にぎわい広場
 このころ一宮市で三星整染の岩田和夫さんが地ビールの「尾張ブルワリー」を立ち上げます。商店街の数人が、どすこいライブの公共地利用スキムで、地ビールを中心にしてドイツの「オクトーバーフェスト」のようなビアガーデンをやろうという企画をします。今は一宮市役所本庁舎が建っている場所にあった「新柳公園」です。
 1999年、ここで商店街団体の主催による「にぎわい広場」が始まりました。飲食物は尾張ブルワリーが提供し、私たちはステージの運営をしていました。この場所は駐車場からのピストンバスの停車場になっているだけの場所でしたが、ここまで人の流れをつくるということは、七夕まつりに回遊性が生まれ、面としての活性化がはかれる可能性があります。私(星野博)も積極的にかかわり、3年目からは完全にボランティア運営になりました。市役所が建て変わってからは、オリナス一宮裏の「葵公園」にて、「葵にぎわい広場」として今も七夕まつりの際にボランティア運営をしています。


真清田神社、飯田宮司
 その少し前、真清田神社の宮司に飯田清春さんが赴任されました。飯田宮司は、以前にはキティちゃんお守りを開発したり、東儀秀樹のコンサートを開いたり、真清田神社では有名人の豆まきを始めたりと多才な方でした。一宮は色々な経緯があって強く「政教分離」が言われていました。真清田神社が出てくると当時の市役所は出て来ないという感じです。飯田宮司は色々な活性化策を出すのですが、なかなか動かなくて苦悶しておられました。
 そんな中、神社の境内を提供してイベントを始めるのはどうかと飯田宮司は発案されました。いくつかの案が出されるなか、今の杜の宮市に繋がる企画が選ばれていきます。
 飯田宮司は、このまちにたくさんの資源を残してくださって、2011年11月に72歳で亡くなられます。


三八市から杜の宮市へ
 私は新聞公募で、その新しいイベントのボランティアスタッフを公募しました。
 一宮の中心商店街は、真清田神社の門前に立った「三八市」(さんぱちいち)が元となり、店舗等が固定化定着化して現在の本町通り商店街を中心としたにぎわいが創出されていきます。三八市は戦後しばらくは鳥居のあたりで闇?マーケットとして存在しましたが、消滅していきます。
 その「三八市」を文化的に再興して創出しよう、真清田神社の境内で!というのが、新聞公募のテーマでした。
 初回の会議には随分多くの方に集まっていただいたのですが、「お金はどうする?」「何をやる?」といういくつかの問いに私は「お金もこれから皆さんと考えて」「何をやるかも皆さんと一緒に考えて」と答えていました。2回目の会議からは随分と人が減り、残った人たちでイベントを立ち上げていきます。

 実は私たちは、この新しいイベントでやることを、だいたい考えていました。当時この地方でも既に松本や長浜などにクラフトフェアがありましたし、覚王山まつりもしばらく前に始まっていました。ああしたクラフトフェアをベースにしつつ、食や音楽なども含めた総合的な文化のイベントを一宮につくりたいという想いです。ただそれは初めのころの会議では敢えて言うのを我慢し、まったくのゼロから参加者の皆さんとともに企画を考えていく、ただしテーマは文化、それも真清田神社の境内をお借りするのに相応しい品質と品格を持ったものでと議論していきました。そうして、だいたい今の杜の宮市への方向性が決まっていきます。
 「三八市」という名前は、ある事情で今の「杜の宮市」という名前になります。
(「杜の宮市」は、なぜ「杜の宮市」という名前なのか http://morino381.sblo.jp/article/186989906.html 参照)


第1回杜の宮市
 その名前になることで、杜の宮市は「手づくりの文化とコミュニケーションのまつり」として明確になり、2001年6月3日に第1回を開催しました。
 前日夜、日が変わってもまだ準備をしていたのですが、終わって一杯飲んで、いったい何人来るだろう、5百人か千人かと話していました。当時は11時スタートだったのですが、9時には会場は来場者で一杯になりました。来場者8千人と発表することになります。何が起きているのかよく分からないまま夕方になりました。
 そうして、さらなる杜の宮市の展開を目指して、活動を継続していきました。

 当時も今も私たちスタッフは全員ボランティアで、しかし杜の宮市を杜の宮市たらしめんために活動しています。

 出展される方々も、来場者の方々も、ご協力いただく皆さんも、どうぞ一緒に「杜の宮市をつくる」というお気持ちでご一緒していただきますよう、お願いします。


画像は、1回目の準備風景。テント設営とかも自分たちで全部していました。

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posted by 星野博 at 11:44| ・ ニュース / レポート